すっかり悟る

そしてすっかり悟ってしまった私。つまらんと思っている人も多いようだが、そんなもの、「あんたの都合でやってんじゃねぇんだよ。許認可事業じゃねぇんだから俺の勝手なんだよ」というしかない。

だいたいが、「あそこは面白くない」「面白い」「あそこはうまい。まずい」というのも、所詮は個人によるそのときの気分である。

すごくいいことがあったらそりゃファミレスでもうまいだろうし、会社が倒産してカネを持ち逃げされたら、いくら10万円の懐石でもうまくはないだろう。そんなもんなのだ。ニンゲンは「そのとき」「いま」だけの感覚で好きなことを言う生き物なのだ。

習性なのだから、それを責めても仕方がない。そういう生き物なのである。人の評価を気にしている人は、すこし考え方を変えてみたらいい。世の中にすごい人なんて一人もいないし、驚くべきことなんてそんなにない。あなたがどう生きて、いま、何をしているか、いま、するべきことはなにかを考えていればいいのだ。

心に余裕を持てば運を引き寄せることができる。運とは自分の思うがままに操作できるものだが、余裕がない人にはわからない。そういうものなのだ。おそらくいつの時代にか、運も科学的に説明できるような気がするが、現代のコンピューターではそこまで解析できない。100万人くらいのニンゲンの一生を生まれたときから記録し考え方も脳波も記録し分析すれば、ある程度の解は見つかるのだろうが、なかなかその研究はできないだろう。

であれば、成功者の方法と同じ方法をとってみるのも手だ。ただし人の成功なんてのはその人のやり方なのであって、俺に当てはまるものではないものだから、俺は人のやり方を鵜呑みにはしない。

「人生の満足」を成功と定義しよう。「金入るのが成功」なんてのはあまりにも短絡的だ。成功というのは人生の満足だ。その満足というのは個人によって違う。ゆえにオーダーメイドでしか作れないし、そのオーダーメイドの職人は自分自身なのだ。他の人はせいぜい、手助けやケースの説明しかできない。

いやはや訳のわからないことを書いているのかもしれないが、どうにもこうにも、悟ってしまって(笑)。普通の会話はまだできているのだが、浮き世離れして人に会わないでいるとすぐにこうやって俯瞰してものを見てしまう。いままでならば「それでも早くネタと仕事を!」とか思っていたのだが、そういう「ふわふわした時間」も楽しいな、と思えるようになってきた。

究極の満足とは「恐れない死」なのだろう。究極の満足があるからこそ死を恐れない。欲望があれば死を恐れるから、欲望をなくせと宗教は説くのだ。その方が楽だから。楽に死ねるから。

だが、ニンゲンとして欲望の限りを尽くすのも、これまた満足感につながる。しかし欲望というのはキリがないので、かならず不満が生まれる瞬間が来る。欲望をどこでやめるか。やめられるか。それは人それぞれの「器(うつわ)」である。

自分の器に欲望がなくなってくると、神様みたいなものが入るのではないだろうか。器の大きい人であれば、多少の欲望があっても、カミは来るだろう。カミはそれぞれ大きさが違うから、大きい器でも入らないカミはいるだろうし、小さい器で十分なカミもいるだろう。カミは思念体の集まりである、と書いたことがあるが、多くの思念を受け入れられる者は器が大きい、といっていいだろう。

 

さて。自分の器に欲望とそれをかなえるカミを入れられる人は世の中にどれくらいいるだろうか。物事中庸をよしとすべしと言うのはこういうところにつながるのかもしれないし、そういう者が運をつかめるのだろう、と思った金曜の夜なのでした。

ま、何かの参考になれば幸いです。