取捨選択。

たくさんやりたいことがあるのだ。できれば、自分のやりたいことをやって生活したい。中にはそうでない人もいるのかもしれないがほとんどの人が「できれば自分のやりたいことをやりたい時にやって、自分の目指す生活レベルを維持する自由がほしい」と考えていることだろう。

しかし、それが実現できている人など、ほんの一握り、いや、足の小指の先ほどもいないに違いない。幸福の物差しをどこにおくかは難しいので、わかりやすく「カネ」にしてみると、日本だけを見ても、いわゆる「年収1000万」という人は1%しかいないのだ。年収が税引き後ではなく税引き前の総支給であった場合はなおさら自由度は少なくなるだろう。

ただし、100億や1000億までの「とんでもない金持ち」になろうと皆が考えているかといえば、そうでもあるまい。「カネはあればあるだけいい」と考えている人、もしくはすでに50億キャッシュを持っている人などは、「もっと高みへ」と思うことだろうが。

私は国民の多くが「多い収入」に満足を覚えるものと長年勘違いしてきた。そういう問題ではない、と、決して負け惜しみでも何でもなく、人々が考えていることに気付かなかったのだ。なぜカネが私の価値の基準になっていたかといえば、ひとつにそれは私が極貧の生活を経験していて、「いつかは億万長者になるぞ」的な、もはや資本主義に恨みでもあるような反骨精神があったからだろう。

もうひとつは、年を取って「できることとできないこと」がわかったのと、「この先このくらいのところでエンディングを迎えたい」という「人生の終了」を見据えた生き方にシフトしてきているからなのだが、私はちょっと変わっているかもしれない。

私は最近ある結論に行き着いた。

「人々は、生まれ育ちなどの環境に左右されながらも、『そりゃカネはほしいが、ゆとりと責任のない、本当に自由な場所で、人と人とのよいつながりを持って生きていきたい』と思うのが自然だ」

ということだ。「違うよバカ野郎」と思う人はきっとまだまだ先がある人だ。ぜひ頑張って何かを成し遂げてほしい。自分だけしか褒めてくれる人がいなくても、家族しか褒めてくれなくても、いいじゃないか。成し遂げた、という自己満足でかまわない。自己満足する人が増えれば、その国家は幸せな国家だろう。なにせ余計な争いが減るからだ。

もちろん、自己満足が単なるふくれあがる欲望になってしまっている人間が増えれば争いもまた増えるのであろう。

たくさんやりたいことがある、と冒頭に書いた。それは富を得るために必要な勉強等の行為だったり、知識や技術を身につける事だったりする。だが、もう、やりたいことが多すぎて収拾がつかず、「何でもかんでも中途半端でめちゃくちゃ」になっている自分が、しばらく前からいた。

「俺は何がしたかったのだろう」と、あらためて、いまやりたいことなどを書き出したりしてみると、なんと167もある。そりゃ無理だ。ひとつに1時間しかかからなかったとしても1日6時間弱かかる。サイトの更新や原稿書き、移動時間やデイリーの情報収集等の時間は全く計算に入れていない。

こりゃ無理だ。何もできずに、自己満足すら最後は得られずに死んでいくのがみえみえだ。まぁ、それもひとつの人生では、あるのだが。

いまさらだが「取捨選択」をしてみたい。すくなくとも、半分にはできるだろう。そして、自由をもっと増やして、カネに縛られず、何かに縛られず、最後は毎日本を読んでのんびり暮らしたい。

しかし、のんびり暮らすためにはある程度「馬力の効いた生活」をしなくてはならない。まさか俺が生活保護で「国にたかってナマポ超ラク~」というわけにはいかない。そんなことすれば天罰が下るだろう。ということは、ある程度、5年程度か10年超えるのかわからないが、一定の時間、また馬力出して生きる必要がある。矛盾しているようだが、まさか北の国からの吾郎さんみたいな自給自足は俺には無理。都会でしか暮らせないし。

さぁ、何を取捨選択すればいいんだろう。

・・・取捨選択をしている間にも時間はどんどん進む。世の中もどんどん進む。ネタもスクープもどんどん飛び交う。

・・・結局今のままでいいんじゃないのという、いつもの堂々巡り。取捨選択を考えるより、何も考えないでできることをやるしか俺にはないのだろうか。

つまらないこと考えてないで何でもいいから書きなさい!という声が聞こえてきそうなので、とりあえず、この辺で。

みなさんは、いままでの人生でどんな取捨選択を、してきましたか?