時の流れを塀の上から見ていると。

時の掃き溜めに住み着くのはいつも後悔とか心残りや恨みや妬みだ。
心の掃除をしてもしてもたまる感情。よいものもわるいものもごっちゃだ。

いっそ、ヒトが何もしなければ、どこにもなんの感情もなくなっていいかもしれない。

掃き溜めにはたまに鶴がいることもあるがそのほとんどは夏の逃げ水のごとくの幻想だ。

掃き溜めの塀から綺麗な世界と汚い世界を見て半世紀。
綺麗な世界も汚い世界も掃き溜めにあるものは大してかわらない。汚い世界の方が案外、掃き溜めとしては住みやすかったりもするものだ。何もかもを超えたところには怨嗟も怒りもないからだ。

ただそこに何かの存在があるだけだ。それを諦めというやつもいるかもしれないし、負け犬と呼ぶ人間もいるかもしれない。

一人で立ち上がれなくなったら、絶望の壁を探して寄りかかればいい。ずっと絶望していられる。そのかわり精神は蝕まれるかもしれないが。

何もいいことが思いつかない。一体なにをどうすればいいのか。
私は塀の上から良い世界と汚い世界の両方を見てきたが、未だわからない。
この塀は万里の長城のように続くのだろうか?

そして、今日も掃き溜めの鶴を探して、ただただ、理由もなく歩いている。
明日はなにがあるだろうか。生きてる、それだけで幸せかもしれない。

そう思うと、世の中で名声と権力が欲しくてもがいてるやつらがうらやましい。目標があるからだ。
そんなくだらないものに執着できるすごさがある。俺には無理だ。そんなもん、うっとおしいだけ。

どこかにある掃き溜めの鶴はチャンスともいう。掴んでナンボ、だ。
塀のどちらかに落ちた方が楽なのだが、塀の上からだと両方見えていい。
見過ぎていやになることはあるけれど。。。