もうすぐ10年か。元気出してあと10年はやるぞ!

そうか、もうすぐ10年か…と、ふと往時を思い出しました。
2011年12月だったか、廃炉工程表を当時の政権と東京電力が公表した際、30年や40年で廃炉作業完了とあるのを見て、当方の周囲(全員文系官僚)は皆が狐につままれたような気分になったものです。
確かにスリーマイル原発で燃料デブリの取り出し実績はあったが、それとは事故の規模が比較にならない。放射線が強すぎて半導体が耐えられない、光学系もあっという間にダメになる、そんな環境に耐える機械器具の開発のめどを立てるだけでも30年かかるのではないか…などと、懐疑的な印象を語り合ったものです。
そして、別添の今朝の朝日新聞の記事。そうか、やはり、あの廃炉工程表には、裏付けとなる科学的計算や技術的打算に確たるものはなく、ある意味での希望(そして、地元住民の感情を鎮めるための方便)だったのかと。30年とはよく言ったもので、ざっくり1世代。子ども世代は、そのころには地縁から切り離され、別の生活設計を見出している頃合い。
今日は紀元節。先の大戦中には「紀元節までに●●を占領せよ」とか「天長節までに…」といった作戦目標が立てられたものの、そのような作戦目標の立案に際しても、戦力整備や兵站の確保といった軍事的合理性が裏付けとして存在したのではなく、単に「無敵皇軍」、「敵は烏合の衆」といった自分らに都合の良い甘い観念的感覚が主軸となっていたに過ぎなかった事例の多いことが、その後の戦史研究で明らかになりました。
そうか、あの廃炉工程表も、その根底にあるのは、「紀元節までに」などと合理性を伴わない記念日闘争と同じ「もの」なのか、と。廃炉工程表が策定された後、過酷環境に耐えうる機械器具の開発のために、大きな国家資産が投じられたとか、優秀人材が集められたとか、そのような戦略的な動きは見えてきません。そのような動きを起こす政治の作用も見えてきません。
そんな中で、先月下旬に報じられた福島第一の3号機についてのニュースは、意外なほど知られていません。曰く「福島第1原発 2、3号機の格納容器上部で約2~4京ベクレル」
https://mainichi.jp/articles/20210126/k00/00m/040/121000c
もうじき10年が経とうとするのに、今ごろになって、原子炉の天井に乗せた巨大コンクリート蓋に、人間が近づけないほどの多量の放射性セシウムが付着しているのが分かったと。そして、原子力規制委員会は、これについて「パブリックコメント」を求めるとのこと。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/82380
原子力技術に関して素人の市民に、このような事がらについて、いったいどのような「コメント」を求めるというのか。いや、「30年では無理」というための理屈付けのコメント、「世論」という名前の後押しが必要だというのだろうか。
30年…そうか、セシウム137の半減期も約30年だったか。30年といえば一世代、セシウム137は半分。100年で三世代待つと8分の1になるのか…。
実際に避難を余儀なくされ、生活基盤や地縁を失った個々の方々には酷なようだが、視点をごくミクロから、超マクロに移せば、こういう冷徹な計算も成り立ち、そして、その計算の上で判断し、説明責任と遂行責任を結果レベルですべて負うのが「政治」なのだが、振り返ってよくよく考えると、福島第一に対して政治が行ったのは、湯水のようにカネを突っ込んだことだけのように見えるのは、気のせいだろうか。

福島第一の新聞記事をたまたま目にして、原発事故のことを念頭に書いてきた。だが、帝国陸海軍の作戦指導と実質において何ら変わらない思考パターン、行動のルーチンは、今回のコロナ対応においても、同様に見られたのではないか。こうなると、もはや「日本の伝統芸」とでもいうほかない。
コロナウイルスのワクチンを打つにしても、アンプル1本から取れるのが5回分だとか6回分だとか、そういう話もあるが、いつの間に日本人はそこまで頭が悪くなってしまったのか。
この国が豊かだと皆が思い込んでいるが、本当にそうなのか。統治機構に関しても、利権政治屋が跋扈するとか、制度疲労が甚だしいとか、そういう話だけではなく、システムの担い手である日本人そのものが、すべての面において内向きで幼児化してしまい、すっかり退化しているのではないのか。